苦しみの中でみたもの
ツイッターに連投した、インプットとアウトプットのバランスが崩れていることに気づいて、このブログを始めるきっかけになったつぶやき達。
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10教わったうちの10以上の事を息をするように飲み込んでしまう。
例えば、教え方が下手な先生、上司の講義。「今言ってもわからないだろうから、また出てくるんで、今日は触れるだけにしておきます」この一言は、本人にとって悪気もないしそれが最善だろうという判断が読み取れる=10とする。
しかしこの10に対して、
1:「いやそこまで言ったなら続きを教えて欲しい」という知的好奇心、
2:「その程度もわからないと見下されて馬鹿にされている」と感じる不快感、
3:「私ならこう教えるのに」という代案…
4:「そもそも教える方法が現時点でこの人に備わってないからでは?」という不信感…などなど、
自分の場合は、これだけのことを脳内で補完した上で最初の10のインプットを完了する。そりゃ苦しいはずだ。
飲み込めないときには、言いたいけれど言えない=インプット量がアウトプットを遥かに凌駕している。
「スルースキル足りないんだよw」と、昔友人に言われたことがようやく飲み込めた。多くの人は、10言ったことに関して感心が無ければすぐ忘れ、その言外の意味を自分に置き換えて考えたりするなどの補完することもなく、人の話を聞いている。
それだけ補完された情報が脳内に入り乱れているのだから、他の人よりもアウトプットをずっと多くする(=愚痴る)か、補完作業せず聞き流す(=スルー)の、どちらかを選択しなければいけなくて、それをしないで見ないふりをしていると、他が手をつけられなくなる。
つい最近、すごく教え方が上手な先生が、私を「あなたはとても優秀だけれど、人より優れていることも障害と言える。私もそう感じたことがあるから」と話してくれた。それとも繋がった。
自分はリアクションが苦手なのだ。当たりさわりのないリアクションが難しく、人を追い詰めてしまうことがよくある。それに気づいてからは気をつけて言わないようにしていたけれど、それは結局、自分を苦しめていた。
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さっきの投稿でもわかるとおり、
私はこの「優秀」という言葉が好きだ。
人間的な魅力だとか生活力だとかが皆無な私に残された、
自己肯定の最後の砦だ。
それ以外のどんな褒め言葉も、「はいはい、お世辞お世辞」としか思えない自分が、
唯一この言葉だけは「この世界に存在していてもよい」と思える。
優秀という言葉は本来相対評価というものさしで測る言葉なのだから、
たまたま私のいる環境において「優秀」という意味なのは理解している。
もっと優秀な人はたくさんいる。
それでも、私にとっては相対評価でしか自己肯定感を得られないし、
人より劣っている部分は人に言われる以上に自覚していて、
≪死んでないけど生きていて、生きているけど死んでいる。≫
そんな状態の人間に垂らされた、クモの糸。