ADHDとして死なないための遺書

死んでないだけで生きてもいない。そんなところから立ち直れたら、これは遺書ではなく偉人伝になる。

用法用量は適切に

あのピンチを振り返る

 

※注意※

体験談として自害未遂の話です

切ったり痛い話はしません

それでも読まれる方はどうぞ

 

 

 

 

 

そのピンチは突然だったように思う。

 

息子が産まれ、義母が1か月手伝いに来てくれていた。

その時は気疲れと子守と、心身ともに疲れていつつも、

「うちの息子は手がかからないほうだ」と思っていた。

実際完全ミルク育児というのは、手間こそかかれど時間の融通は利いた。

自分の時間がない、と感じたことはなかった。

 

しかし、人と人との慣れというものは、段々と距離感が縮まってくるにつれて

嫌でも人の嫌な部分が目に付く。

それを察知したのか、義母はきっちり1か月で帰っていった。

 

そこから1か月、2か月目。

その日は訪れた。

 

何に疲れていたのだろう。

今となっては原因すらわからない。

おそらく、コップの水が段々と注がれていくように、

その日溢れてしまったのだろう。

 

息子は寝ていたのだろうか。

私はコーヒーで抗不安剤を20錠ほど飲んだ。

我ながら、「後遺症どころか胃洗浄にもならない量」という

死への覚悟もないオーバードーズである。

 

気が付いたら病院にいた。

首が座りつつある息子をおんぶした主人がいた。

 

そしてこの話は、実はもう一度起きる。

その時のことと混同していて、いまでは思い出せないのだ。

 

覚えているのは、「赤子を連れて救急車には乗れない」とかなんとか言われたこと。

後から調べて、「救急隊員が無駄だと思う出動はオーバードーズと急性アル中」だということ。

それから、すでにそれを見越して生後2か月、

つまり義母が帰ってすぐ「保育園を探しましょう」と声をかけてくださった保健士さんの先見の明。

時系列を整理すると

義母帰宅→保育園申し込み→OD→保育園決定

だったのだ。

先行きの見えないと思われていた育児に希望が見えたのは、

身を潰した後だった。

 

薬というのは同時に毒でもあって。

しかし、必ず飲まなければ、今の私は自我を保てないのだろう。

用法用量を守りさえすればいい。

しかし「何か約束ごとを守ることが苦手」という障害でもあるこの私には、

辛く、とても我慢を強いられる。

今は夫は薬を管理してくれているので、滅多なことがない限りODはないのだが。

決して、病状がいいとは言えないなあ。

そんな眠れない今日。